2003年09月22日 Mon

「旧諸江屋改修工事」

先日、『秋聲旅日記』という映画を和泉が見てきた。
螢屋の「硝子の間」とブリッジが場面に登場するそうだ。

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秋聲旅日記

監督+脚本=青山真治
原作=徳田秋聲 「挿話」「籠の小鳥」「町の踊り場」「旅日記」
出演=嶋田久作/とよた真帆/ナシモトタオ/西條三恵/ケイコ・リー
製作=ユーロスペース/竪町商店街振興組合/シネモンド
プロデューサー=堀越謙三/植村まゆみ/土肥悦子
撮影=たむらまさき 録音=菊池信之 美術=林千奈 音楽=長嶌寛幸

●ものがたり

故郷金沢に帰省した秋聲(嶋田久作)は、甥の辰之助(ナシモトタオ)の案内で、旧知のお絹(とよた真帆)とおひろ(西條三恵)の家へと向かう。

そこは彼女たちの母親が始めた宿でもある。とはいえ、泊まり客もほとんどなく、かつての面影を忍ばせるだけの、どこか時代から取り残されてしまった風情。だが彼女たちには、そこを再び活気づかせようという気配はない。かといって投げやりというわけでもなく、こまめによく働く。時代の流れをひっそりと避けてそこにあり続けることだけが生きる証のようにも見えるお絹の落ち着き方に、秋聲は次第に惹きつけられていく。

だが秋聲の、お絹を慕う名状し難い想いは、茶屋街の密やかな空気に漂うばかり・・・・。

一方、見舞いに行った病床の兄の気弱な態度に、秋聲は、鉱山に縛られて過ごした兄の30年の人生を思う。病室の窓際に掛けられた鳥籠の中で鳴く小鳥の声の哀れ。

往時を思わせる町並みと、近代的なビルの光が同居する金沢の街の中で、彼の思いは時の流れの両方向に押し広げられていく・・・。

●差し出された硝子の架け橋 樋口泰人

「足跡」「黴」「燗」「あらくれ」「或売笑婦の話」「蒼白いつき」・・・。明治初期に金沢に生まれた徳田秋聲の残した小説には、痛々しく後ろめたい、そしてささくれたタイトルが並ぶ。

彼の背負った複雑な家庭背景や身体的な弱さがそれと共に想起させられるのだが、青山真治が、そのモチーフに選んだのは、明治初期に金沢に生まれた徳田秋聲の小説。その中でもあまりに平凡な、平凡すぎてそれはそれであまりに奇異なタイトルの「挿話」をはじめ、「町の踊り場」「籠の小鳥」「旅日記」というどこか着地点のない空虚なタイトルが並ぶ。

冒頭、主人公(秋聲)が乗った飛行機なのだろう、窓外の風景の空中撮影から、この映画は始まる。傘に茶色の小型トランクを持ち、時代遅れの帽子をかぶり空港に降り立った主人公は、現代的な空港の風景の中で自らの居場所を決めかねている風情。足が地に着いていない。そこはどこなのだろうか? 彼はどこからやってきたのだろうか?

もちろんそこは金沢であり、彼は大正時代からタイムスリップしてそこに降り立ったわけではないのだが、ただやはり、往時の面影を残す町並みの中を当たり前のように走る現代的な小型車のフォルムは言いようのない違和感を残すし、もはや泊まる客もほとんどない宿の奇妙な静けさや、格式だけが残るそこで生きる女たちの微妙な人間関係も我々の不安をかき立てずにはおかない。

女将の姉がふと漏らすのは、「みんな西に行ってしまって、ここには格式ばかりが残るだけだ」というような言葉である。それに対し男は、「格式もなくなったら何もなくなってしまう」と応える。そこは金沢という固有の場所であると同時に、東と西の中間地点でもあるのだ。東の格式がかろうじて残ることでかつてそこにあった何かが幽かに息づいている、そんな儚い場所・・・・。

例えば、主人公の男が鮎を食しに入った料亭で、あれはロビーの上を伝う渡り廊下なのだろうか、部屋の上方に渡された廊下を歩いていく女の姿が仰角でとらえられる。それは強化硝子で出来ているのだろう、決して壊れるはずはないのだが、しかし見た目にはそんなところに人間が乗ってしまって大丈夫かとハラハラさせられる。おそらく歩く本人にしてみても、慣れるまではその足下の不安が一歩一歩について回るはずだ。そしてその一歩一歩に貼りついた儚い確かさの記憶は決して慣れることのない不安として、彼女の身体に染みついていくだろう。

主人公が降り立ったのはそんな場所なのだ。だから病気療養中の兄の病室を出てエレベーターに向かう主人公の後ろで小さく聞こえる小鳥(兄の病室で飼われている)の声に、彼は思わず立ち止まる。小鳥の声は、あり得なかった彼と兄の人生の可能性から聞こえてくるからだ。以後、彼はその地点を常に振りかえりながら前に進み、その振りかえりの軌跡全体が彼という一つの人格を作り上げていく、そんな引き延ばされた「個人」として、生きていくだろう。

何を見ているのか、誰に向かって話しかけているのかどうにも判然としない微妙な表情のまま、しかしそれが当たり前のようにたった一人でそこにいるばかりの宿の女将の姉の視線は、おそらくそんな彼の引き延ばされた全体へと向けられているはずだ。つまり虚空に差し出された硝子の架け橋のようなものとして・・・・。

その時「挿話」は、あらゆる物語の可能性の中に広がり始める。我々はそんな可能性としての物語を、女将の姉を演じるとよた真帆の繊細な表情の中に見ることになるだろう。つまり我々の人生のすべてと、叶えられなかった可能性と、夢見られることもなかった人生を・・・・。

以後、我々の人生はそのあり得ないはずの儚い記憶に膨らみ、その重さのない重力が我々の一歩一歩をかつてないほどの濃密な不安と可能性と希望と逡巡と愛とで満たすだろう。

変わりゆく時代にあらがうように、前世紀末に開館した金沢の小さな映画館シネモンドと、地元の堅町商店街振興組合が企画した映画製作ワークショップの一環として『秋聲旅日記』は生れた。